【更新再開】ブログ名を変えました
ブログ名を「イマイマココニ」に変えました。
話せば長くなりますが…
「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」と後世で語られるのは、子孫が続いたか、2人が世間で語り継がれるくらい有名だったか、何か記録が見つかったからだと思います。
「いま」が「むかし」になった頃、私の「いま」の記憶は(少なくとも鮮明な記憶は)私には残っていないでしょう。だから日々を言葉という形で切り取って、残しておいてみることにしました。将来の自分が読み返すことになるか、自分以外の誰かの目に留まるのかはまだわからないけれど。
それがこのブログを「イマイマココニ」と名付けた理由です。全然長くなかったですね。
はてなIDをdrainageにしたのは、はてなブログを始めた時、頭の中のグルグルやモヤモヤやドロドロやキラキラなんかを吐き出す場所がほしくて、そんな場所にしたかったからです。
そして、吐き出すけど消え去るのではなくて、一時的に(あるいは取り除くまでずっと)ひっかかっておいてくれる。それは排水口に似ているなと思いました。
そういう場所であることは、今でも変わりません。これからもきっと変わりません。
ちなみに「〇〇歳のブログ」というブログ名をやめたのは、単純に、毎年更新しなくてよいものにしたくなったからです。
さて最後に、数年前の記事がそのままになっていることからもわかりやすいとは思いますが(そのうち整理すると思いますが)、当方、三日坊主のプロであります。(お付き合いくださる心優しい方がもしいらっしゃいましたら、その)皆皆様方、どうぞ、ゆるりとお付き合いくださいませ。
それではまた。
風邪でもがっつり食べる人の食欲をまるでなくした精神的ダメージってすごいなっていう話
サラダ少々とマルゲリータ一切れしか食べれないで終わったディナーが、既にその影響を受けていた。
ホテルのベッドで店を調べていた時、こんなことになるなんて一粒も思っていなかった。レストランに入る直前、街を歩いていた時、ふと入った雑貨屋の下りのエスカレーターで、人生で一番悲しい時間の開始のゴングが鳴ったのだ。
サラダは、その人が取り分けてくれた分をなんとか食べた。その後悲しみの余り食が進まない私の目から涙がこぼれないうちに、店を出ようと残り5切れを急いで食べたその人が苦しそうにしていたのを覚えている。
その人は私が最初に頼もうとしたクランベリージュースを頼んでいたが、気が付くと既に飲み干していた。私は自分が頼んだパインジュースを半分あげた。
ディナーの後、悲しみと話し合いの繰り返しを経て、ダブルベッドの隅と隅で眠ることになった。何度も目が覚めた未明。近づこうとしては躊躇い離れていくその人の気配が、現実だったか夢だったかは定かではない。
その翌昼に栗菓子と抹茶。栗のアイスクリームを一口。
翌翌昼に寝床で栄養食品を半分。起きられないままタピオカミルクティー小。
その夜、麻婆豆腐を一口、白飯を一口、味噌汁を一杯、シウマイを一口、洋梨を一口、林檎を一口。食べる気は起きなかったが、少しでも食べざるを得ない状況にて。
翌翌翌昼に仕事の合間にフライドポテトを3本。ファストフードを残したことなんてなかったのに。
そしてその夜、マルゲリータから3日目にしてようやく、ネギトロの細巻きを2本、ブロッコリーを3切れと葡萄10粒を食べることができた。相変わらず食欲は機能していないが。
人はまず空気と水がないと生きていけず、ある程度なら食べなくてもやっていけるという話題をよくきくが、それを実感した3日間だった。いや、食べてはいたけど。
このまま、いつもの食欲が戻ってきてくれることを切に願っている。
春の夜の夢をみていた話
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
という有名な文句がある。平家物語の冒頭部分だ。これを思い出していた。
先日の、長く親しんだものとの別れの原因を考えた時、あぁ私の「これくらいでいいだろう」が積み重なっていった結果かもしれないと思った。
例えば、最初の頃は一張羅をとっかえひっかえしていたのに、いつのまにか、機能性重視で普段着ばかりになっていたこと。コスメが減っていき、前髪も巻かなくなっていったこと。
例えば、最初の頃は相手がどう感じるか傷つかないかを念入りにチェックした発言をするようにしていたのに、いつのまにか、自分が思うことをそのまま言うようになっていたこと。素直というわけではなく、ただ自分の気持ち良さを優先したしゃべり。受け入れてくれる相手に甘んじて、照れ隠しで本心と違うことを言い続けたり。当初より相手の考えに近い考えをするようになっても、そうなったことを上手く伝えられていなかったり。
例えば、最初の頃はアンガーコントロールに勤しんでいたのに、いつのまにか、イライラやさみしい気持ちをぶつけるようになってしまっていたこと。
例えば、最初の頃は自分とは違うこの人がどういうことをするのかが興味深かったのに、いつのまにか、自分の思い通りに相手が動くように仕向ける自分になっていたこと。
例えば、最初の頃は本当に悲しい時にだけ使っていた手段を、いつのまにか、いつも使うようになってしまっていたこと。
例えば、最初の頃はこっちを向いてくれるだけで嬉しかったのに、相手が求めてくれるという快感に溺れ、いつのまにか、わざと振り払った手を握ってくれないと満足できないようになっていたこと。してほしいことをしてくれた時でさえ、一旦拒ないと受け入れられないようになってしまっていたこと。
例えば、最初の頃は少しでも相手が心地よくなれるように努めていたのに、いつのまにか、これくらいでも心地よいと感じるだろうと無意識で手を抜くようになってしまっていたこと。に今になって気づいたこと。
例えば、最初の頃は私が連れていく未来や二人で歩いていく未来を想像していたのに、いつのまにか、相手に連れて行ってもらう未来ばかりを想像するようになってしまっていたこと。
相手も慣れていくことを求めていたのであれば、むしろ良いことも含まれているかもしれなかったが。相手が実は慣れないことを求めていた以上、すべてがどんどん悪い方向に突っ走っていたのかもしれない。
私はいつのまにか、おごれる人になっていたみたいだ。
楽しい楽しい春の夜の夢は明けてしまった。自分に都合の良い夢の中にまた戻ってしまうことがないよう、現実の朝を迎え撃つ準備をして、床に入るのだ。
立ち直るまでの時間の話
このブログを始める時、毎日投稿を目指した。だけど、昨日、それは途絶えてしまった。
人生で最も愛を感じていた大切で尊いものとの別れと、人生で最も辛く耐えがたい悲しみの時間の始まりが同時に存在した日だった。
最後の時でさえ、自分の欲望のままに行動するということができなかった。後悔ばかりが押し寄せてきた。最後くらい、常識や真面目さを捨て去るべきだった。
「どうして」と「ああしていれば」が繰り返し襲ってくる中で、文章を書くことがどうしてもできなかった。
何かをきっかけにして、それまでと違う状態になってしまった時、人が元に戻るには、どれくらいの時間があればよいのだろう。
人の目があるところでも、涙が止まってくれない。身体が水分や養分を欲してくれない。ぽっかりと空いてしまった穴からは、鮮血が滴り続けている。
そんな状態が、元の状態に戻るのはいつになるのだろう。元の状態を、平坦だった頃ではなくあの人生で最高だった日々と設定するのであれば、戻れることなんてあるのだろうか。
行動に移るまでの時間が短いこと、ただそれだけが自他共に認める私の長所である。
悲しみに暮れることが悪いことだとは思わない。思考に感情がついていけないのは当たり前である。治ることが確約されている傷も、実際に癒えるまでには時間がかかる。
立ち直りを待たず、立ち上がり、歩き出すのだ、自分よ。こんな自分にも寄り添って励ましてくれる人がいただろう。戻るにも進むにも、動くという動作が必要だ。
いつもどおり、食べること。いつもどおり、眠ること。いつもどおり、仕事をすること。いつもどおり、楽しい(はずの)ことをすること。いつも以上に自分を磨くこと。どんなに、辛く思えても。
このブログだって、このまま終わらせてなんてやるものか。
皆様のご意見を伺いたくなった話
報連相が左右するのは、ビジネスだけじゃない。私生活もだと思う。
ある人と待ち合わせをした。
待ち合わせ場所は、お互いの住む場所の中間くらいにある駅になった。その人は高速バスで向かうと言うので、新幹線で向かう私はその人が着く時間をきいて(11時とのこと)、じゃあ同じ時間に着くように向かうねということになった。
当日。待ち合わせの5時間前(6時)にその人から「A駅に着いたよ」という連絡があった。A駅は待ち合わせの駅から車で1時間くらいのところにある駅だ。
高速バスは、自分の経験では、交通状況で数時間遅れることはよくあっても、数時間巻きで到着することはあまりない。
「7時には着くの?」ときくと、「早い便に変更したからね」と返信があった。
個人的には、いやいやいやいや!とかえーーーーっとか、そういう感嘆詞でしか表せない感情である。もやもやである。
その人が早く着くことがわかっていたら、自分も新幹線を早い便に変更して、待ち合わせ時間を早くすることができた。その後の時間をたっぷりと使えたのに。
私がその人だったら「(諸事情で)バスを1本早い便に変更することになったから、定刻通りなら7時に着くことになる。(新幹線の手続きとか、朝起きる時間とか、電車の接続とかあるだろうから)待ち合わせ時間を変更するかは任せるけど、どう?」とか言う。時間ヲ変更スル場合ハ相手ニ伝達スルコトという取り決めがなくてもする。普通に。
私の普通は普通ではないのか。普通は伝えないものなのか。それとも、待ち合わせ時間を早めたくなかったのか。
もやもやは消えず、皆様にご意見を伺いたくなったのであった。
いくつもの夜の話
印象的だった夜がいくつかある。
3月の屋久島、森のロッジ、を抜け出して向かった小川、が近い森の中、闇、空と木の黒の違い、月、耳の寒さ、静けさ、友人の呼吸、目の慣れ、星、星、星。
翌年の3月、土佐山、土砂降り、杉林の斜面、寝袋、ブルーシートの屋根。斜面を上ったところにある資料館、の駐車場の隅、屋根の端の下、横向き、目の前にコンクリート、この森に10人ぼっち。
数年前に住んでいたシェアハウス、自室、窓際のベッド、仰向け、白い天井、黄色いタオルケット、桃色のカーテン、の隙間、窓越しに眺める降り続く雨、白む空を照らす街灯、が差し込む4畳、大きくはないのに響く風の音。
明細さは失われているだろう。自分勝手な脚色が加わっているだろう。けれども。切り取られたいくつもの「あの夜」たちは、私の中に残り続けている。
つまり、地球上で生き延びたいならエド・スタフォードと一緒が最強という話
今週のお題「部活」
サバイバル部。それは、もし私が学生に戻って部活をやるとしたら、入る部だ。
なかったら作る。かつて学生だった頃は、既存かつ既知の範囲から最良と考えられるものを選ぶだけで息も絶え絶えだった。ないものはつくればよいと思い付く視野の広さも心意気もなかった。
思えば、部活は「言い訳」になる。
現代日本では人生を左右しがちな受験勉強でさえ、いえいえ部活をやらねばならぬのでと言うと、良いかどうかやるかどうかはさて置き、大事なことを先延ばしにしていることを納得してもらえた気がする。
そして、部活なのですと言うと、大人が持てる知識や経験を惜しみなく授けてくれるきっかけになった気もする。
やりたいことを部活にしてしまえば、(常識の範囲内であれば)誰にも文句を言われずにやりたいことをやれてしまうのだ。
ディスカバリーチャンネルの『ザ・秘境生活』を観たことがあるだろうか。
元軍人で冒険家のエド・スタフォードが、裸一貫で、無人島や荒野を数十日間生き延びる(時には快適に暮らす)という番組だ。
そこでは、拾ったものだけから火を手に入れる方法や安全な水を手に入れる方法など、ありとあらゆるサバイバル術を観ることができる。
自然の中で裸じゃないことがいかに安心できる状態なのか、人はどれくらい孤独だとクレイジーになってしまうのかも観れる。
私がサバイバルに挑むことになる時、最低限の道具は持っていて服も身に着けていると思う(思いたい)ので、自然の物からいかに快適な下着代わりのものを作り上げるかをエドから学ぶ必要はない。あんなにど自然の中に行けることもない。
私がサバイバル部で身に着けたいのは、知らないよりは知っているほうがいざという時に役に立つ知識やその知識を実行したことがあるという経験だ。
まずは、キャンプからかなぁ。